2009年11月3日火曜日

踊りなさい。キッチュ!

kuso.jpg 人間が神の姿に似せて作られた。とすると神は腸を持っていることになる。 糞は悪よりもはるかに困難な神学上の問題である。 神は人間に自由を与えた。 従ってわれわれは神が人間のもろもろの罪に責任がないというのを結局許容することができる。 しかし、 糞に対する責任は人間を作り出した者だけが全面的に責任を負うことになる。 人間がまだ天国にいることが許されていた間は、 アダムとエバは、ヴァレンティノスの考えによるイエスのように、 排便はしなかったか? 糞が糞として認識されたのはいつで、それはなぜか? 人間が恥ずべきものとして糞を認識したことで、同時に、 性的興奮も知ったのである。とされている。か、 …性的興奮はこの世ではむだなものになることを意味する。 男根が頭をもたげるのは性的興奮を感ずるからではなく、 そう命令するからである。…天国にあったのは快感であって、 性的興奮ではなかったことを、よく記憶に留めておこう。だって、 で、人間が神の姿に似せて作られた。とすると神は腸を持っていることになる。 とすれば、糞が不道徳であるなどと、まさか主張なさりたくはないだろう。と。 糞との不同意は形而上的なものである。 排便の瞬間は創造の受け入れがたさを日々証明している。 …存在と絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、 すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。 この美的な理想を俗悪なもの(キッチュ)Kitsch という。 これはドイツ語の単語で、センチメンタルな十九世紀の中頃に生まれ、 すべての言語にひりがったものである。 ところがしばしば使われているうちにもともとの形而上の意味を失ってしまった。 すなわち、文字通りの意味でも比喩的な意味でも、 キッチュは糞の絶対的否定になった。 キッチュはそれ自身の観点から 人間の存在において本質的に受け入れがたいものをすべて除外する。 存在の耐えられない軽さ ミラン・クンデラ から めちゃくちゃでたらめカットアップした。 から、キッチュは糞の絶対的否定になった さて、その昔、ファッション業界で少し話題になった「シープ・シック」 (1975年、アメリカの2人の女性ジャーナリストによって書かれた) VIQgyjr6G5lacve9RfaogHK8_400.jpg 確かこの中に「キッチュ」という言葉出てくるだよね。 あれからずっと深く考えずに使い慣れてしまった言葉だが、 つまり、私の友人に、 「キッチュ」と呼ばれるタレント・俳優・コメディアン、が存在しなければ、 こんなに目を細めてブログを書くこともなかった。 元はと言えば、Twitter つぶやき、の所為だ。 だからキッチュがフォローしてこなければ、 もっといえば、あの陽気な敬愛する宮沢章夫に そのTwitterについて興味深く語られなければ、 私はすっかり踊らされたともいえる。 夏に踊ったのなら、冬にも踊りなさい。 この、存在の耐えられない軽さ。

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